NEWS / WRITES 宮本農産五代目 宮本 健一
2021
02
11石川県小松市でお米と小松イ草を栽培している宮本健一です。
1987年11月11日生まれのB型です。
2013年にホテルマンから転職しUターン就農しました。
ここでは私の半生についてお話したいと思います。
□学生時代
学生時代は体を動かすのが好きで体育の時間が楽しみな子でした。
高校では野球部に所属していましたが、レギュラーにはなれず、最後の夏は何とかベンチに入るのがやっと。高校時代は生徒会会長になったり体育祭では団長に選んでもらえたりと、昔からリーダーになることは多かったなと思います。特にリーダーシップがあるわけではないけど、なぜか選ばれていました。案の定、グイグイ引っ張る感じではなく、常に周りに恵まれ、助けられていたなと思います。
昔から効率は悪い方で、大学受験も失敗しすべり止めで受かった神戸学院大学へ進学。
今に考えると受験勉強もやって満足で全然頭にはいっていなかったな~と反省。
ただ、本気になればひたすらそれに向き合うことが出来る事を知った気がします。
それでも、いま振り返れば、この神戸での1人暮らしがを通じて色んな事を学んだと思うし、多くのご縁をいただいたな~と思っています。
大学進学後は2週間ぐらいは退学して、もう1回受験勉強しようか迷ったこともありました。見知らぬ土地で、人見知りでな僕は日々葛藤していました。
転機になったのは奨学金の説明会で、たまたま質問で並んでいたときに前にいた人と話したのがきっかけで、ようやく友達ができました。この友達は大学を卒業しても同じ場で働き、今思えばすごい出会いになったな~と思います。
自身初めのバイトは大学1年の6月か7月に初めてた吉野家のバイト。働くということを知らない僕は、ガチガチで、出勤初日に仕込みたてのコールスローを14個くらいかな・・・運んでいたら手が滑ってこぼしめちゃくちゃ怒られました。これが初出勤して数十分後の出来事です。最近になって聞いたのですが、吉野家は牛丼ではほとんど利益が出ていなくて、コールスローやサイドメニューで利益が出ていると聞くので、怒られたのも納得(笑)
こんなスタートだった吉野家も1年がたてば夜のピーク時の盛り付けや、店長代行をやらせてもらえるよになりました。
吉野家ってご存知の通り出てくるの早い!という事は我々は早く出さないといけない。
ピーク時にはずらっと並ぶ注文を、どの順番で作るのが一番効率が良いか、出しても出しても溜まっていく。米を炊いて、肉を盛って、定食を作って、一息つく間もなく動く。
今に向き合う体と先を読む頭、これが私にとって快感で、いかに効率よく回すか、おそらく人生で効率を考えて動いたのはこれが初めてしれません。
負担が負荷になり快感になる。
ピーク時間、若いメンバーで回してるときは、俺らで超えてやんねん!みたいなアドレナリンと一体感が合って楽しかったのを思い出します。
余談ですが、毎回同じメニューを注文するタクシーの運転手がいて、その車が到着するとスグに出す。ニヤッと笑いながら厨房の方を見る運転手の視線の先には、チョーにやけている僕がいました。
吉野家にはホントに鍛えてもらったな。
色んなクレームも受けた。自分が悪いことから理不尽な事まで色々ありました。
監視カメラを何回も何回も見なおしたり、警察が来たこともあったな。。。。
それもこれも大学生の僕には対処しきれない事も多く、店長やエリアマネージャーに大変お世話になりました。
一番ヤバいと焦ったのは、夜勤の明け方だったかな。。。過去にクレームを頂いた3名が同時にいるシーン。あれはドキドキしたな。。。
こうやって振り返っても、メンタルの弱い僕がよく1年半も続けられたなと思います。
□スノーボード
もう一つ、大学1年で運命的だったなと思うのがスノーボード。
中学2年からスノーボードをしていたんですが、まさか神戸でスノーボード仲間が出来ると思ってもいませんでした。
当時流行っていたSNS「ミクシィ」このコミュニティをきっかけに同年代のスノーボード仲間と出会い、一気にスノーボードにのめり込みました。
当初は趣味だったのですが、大学2年にはプロを目指すようになりました。
大学3年から友達が就職活動を始めるなか、僕は1・2年で単位をほとんど取り終えスノーボード一直線!大学2年の冬には短期留学と言ってカナダへ1ヵ月行きました。
それまでDVDで見ていた外国人の滑りを生で見る刺激が凄く、滑りだけでなく感性を鍛えられたなと思います。枠に捉われず自由に表現して滑る。お金はかかったけどカナダに行けたこと、外国人と暮らせたことは良い経験になりました。
日本に帰ってきてからは新潟・長野と3シーズン滑り込みました。
スノーボードでプロを目指すため、親をどう説得できるか悩みました。
最終的にはプロになれなかったら農家になると伝えたが、今うちに来ても仕事がないと言われて撃沈したのをハッキリと覚えています。
それでも諦めきれずにスノーボードをすることを選びました。
大学を卒業して1年間までは本気でやる。
当時20歳だったので23歳までの3年という期限を付けて、そこでプロになれなかったら辞めると決めて、スノーボードをしました
ただ、新卒の就活も今しか出来ないと思い7社くらいは面接を受けています。
まぁ経験としてやっていたレベルで面接官には「君、甘いよ」のような感じで怒られたりしましたけどねw今思えば面接官の時間を奪って申し訳なかったな。
その後、周りの友達が就職を決める中、自分は毎日バイトとスノーボードの練習。
そして冬になると山へ行く。
21歳の冬は新潟県の石打丸山
22・23歳の冬は長野のHakuba47
結果とはこの年でプロにはなれませんでした。
結果を残せばプロになれる全国大会まで行きましたが、実力不足で前日に怪我をしてしまいました。
またこの年は2011年、東日本大震災の年でもあり、予定されていた大会も3月以降は全て中止。
あっけなくプロへの道は閉ざされました。
この最後のシーズンはプロを目指す傍らで、ゲレンデでディガーと言う、パークを作る仕事をしながらのシーズンでしていた事で、よりスノーボードの魅力を知ることが出来たと思います。
それまではただ自分が上手くなりたく毎日練習をしていたけど、この年はゲレンデのスタッフとして働きながら練習をしていました。滑るお客さんがどんなコースだったら楽しいかを来たくなるかをスタッフで考える日々。
スノーボードって難しい技で難易度を競う競技でもあるんですが、それとは別に個性(僕たちはスタイルって言います)で人を引き付ける、ファンを作るという側面もあります。
同じコースを滑っていても人によってやる技だったり・グラブ・滑る場所が全然違う。
ゲレンデがめちゃくちゃ良い状態でも、悪い状態でも、自由な発想で楽しそうに滑べる
これが最大の魅力だと感じました。
滑る方も自由なら作る方も、お客さんの発想を超えるコースを作る。
最高の仕事でした。
ゲレンデを作ることもモノづくりであり、人を楽しませることができる
1年だけでしたが多くの事を学びました。
その他にもスノーボードの良さを上げたらきりがない。
個のスポーツ何ですが、勝った人を敗者がたたえる。
凄い技、勝った人の所にワーーーーっと集まり一緒に喜ぶ。
2019年にラグビーワールドカップの時にノーサイドという事が流行りましたが、スノーボードにも同じものがあるなと感じています。
まだまだ凄いのが、皆自分をPRしないと行けないので皆SNS・ブログ・動画・写真に力を入れていました。今では当たり前を当時から多くの方がしていました。
僕あSNSとブログはしていましたが映像に残す事をほとんど出来ていませんでいた。
映像を残せていないのは本当に後悔しています。
でもブログは1日に500人とか、多い日は2000人近いアクセスがありました。
□株式会社Plan・Do・See
スノーボードを行いないながら神戸でやっていたバイト
大学3年からキャンパスが変わり引っ越しをし吉野家から婚礼サービスのバイトに変わりました。
婚礼サービスと言えば配膳=派遣のようなイメージがあるが、僕の場合はずっと1箇所に固定でたまにヘルプという会社でのバイトでした。
株式会社パシフィックダイナーサービス(ダイナー)。このダイナーと出会った事で株式会社Plan・Do・See(PDS)を知り、今の奥さんとも出会います。
全てはダイナーがきっかけ何ですが、実はこの会社を紹介してくれたのが吉野家時代のバイトの先輩なんです。
カナダに行く前引っ越しを終え、面接を受けて、それからカナダへ。。。帰って、お金を稼ぐためにスグに仕事をくれとシフト担当の人へ連絡。それでも新人なんでいれてもらえず、洗い場でアサインされたりって事もありました。
ただ、この洗い場が結構良くて、それまで1人のおばちゃんが担当していた洗い場に僕が入る事で2人になる。2人になるから早く洗い物が終わり、会場のサービススタッフからも感謝される。そんな事もあり、、新人でしたがその後のコミュニケーションもスムーズに取ることが出来ました。
どんなポジションでも全力でやるって大事だね。
それから数回、会場にサービススタッフとしてアサイン。これがまた良くて、どの結婚式もめちゃくちゃ感動するんです。20歳にして新婦父の気持ちになり手紙で泣きそうになり、この仕事めっちゃえーやんって思っていたのも束の間。理由は分かりませんが会場から外され、フロントの担当になりました。(多分、フロントに男手が欲しかったんだと思う)フロントは結婚式までの待合の場だったりクロークがあったり、ご親族様のフォローをする場所であり係。
その他にもフロントは会場の内の人の動きをコントロールしたりオペレーション的な役割をはたしていました。このオペレーションこそが宮本健一の株価を一気に上げてくれました。ここで人生初のインカムを付ける。※インカムというのは無線機。トランシーバーにイヤホンとマイクがついているようなモノで、離れていても簡易に会話が出来るので連携・共有ができる。
館内のオペレーションを覚えた私は全館のコントロールを任せてもらえるようになり
フロントインチャージとしてのポジションを確立しました。(バイトなので責任者とは言わないが)思い出すだけでワクワクします。あの時の私はノリノリだったと思う。フロントに立ちながら会場のやチャペルの動きをイメージ。
今に向き合う体と先を読む頭、そこに片耳はインカムの声を、片耳はお客様の声を聞く。あの時の僕はプレーヤーとしては凄かったかも知れない。
きっと目が5つくらいあった。
ただONの宮本健一は少々キツくて、黒ミヤケンとも呼ばれていました。(笑)その気は今でも感じます。
このころは平日は大学に行き帰ってからは神戸KINGSというスノーボードのオフトレ施設に通っていました。週末はがっつり働いて、平日は大学・KINGS、ミヤケンは冬には山へ行くのでいなくなる、大学でもバイト先でもすっかりおなじみになりました。。
大学4年の冬を迎える直前にバイトをしていた結婚式場が閉館。12月だったかな。
同じ神戸市内にオリエンタルホテルという神戸でも有名なホテルを運営する事になりました。
阪神淡路大震災をきっかけに取り壊された旧オリエンタルホテル。マリリンモンローとジョーディマジオが新婚旅行で泊まったりと古くからあり、神戸を代表するホテルでした。このホテルが復興のシンボルとして、同じ場所に建てられ、その運営を株式会社PlanDoSeeが行う事になりました。
またしても僕は山、今度は白馬へ行く前に面談を終え、下山と同時に担当者へ連絡。
「えーー帰ってきました」と(笑)
よくもまーこれで受け入れてもらえたなと思います。
その後、スケジュール調整との事でやく10日程度ニートを経験した後に無事研修を行ってもらえました。(この10日間のニートは苦しかった。。。)
この研修の日、たまたま宴会がありそのままアサインされることに、、、
新人のはずの僕が、メインのメンバーと仲が良い。(結婚式場からホテルに移動した人も多かったので)
きっと面白くない人もいたと思います。
そんな僕は若干天狗になっていたかもしれません。。。が速攻でその鼻はへし折られました。(自分自身で)
テーブルいセッティングされたグラスが若干曇りか指紋があり、皆で拭き直し、僕もそこから参加しました。そして参加して数分。。。
セッティングが仕上がっているテーブルの上で「ポキッ」・・・・っとグラスの足を折ってしまし、テーブル毎セッティングのやり直し。鼻だけでなく心も折れてたな。きっと。
これが僕のデビュー戦。吉野家のコールスロー事件と言い、しょっぱなやらかすクセがあります。
ホテルでも入って1ヵ月くらいかな、フロント的な場所へ移動、またしても会場から、列席者の待合やご親族様のフォローをするポジションへと移りました。
きっと男手が欲しかったんだと思います。現に今回は男は僕だけでした。
ホテルになり、会場も増え、結婚式の数も増え大変でしたが、僕がここに呼ばれた理由は、前の会場のでの経験を活かす事と、唯一の男として何か女性陣の起爆剤にと勝手に理解し奮闘しました。
ホテルでは皆さんの方が先輩なので様子を見ながら、淡々と仕事をしていましたが、やっぱり無理でした。
次第に黒ミヤケンが出てあれよあれよと、インチャージに昇り詰めました。
この会社にはルールがあって、新郎新婦と新郎新婦を併せない。
これは以前の結婚式場から変わらないルール。
大きなホテルって披露宴会場がズラッと並んでて、あっちにもこっちにも新郎新婦がいるじゃないですか。
せっかくのハレの日で自分たちが主役なのにウェディングドレスの新婦さん同士が会うって嫌ですよね。
なので新郎新婦同士を合わさない、これがルールの1つでした。
この時は、僕は朝食やカフェのスタッフをしていたこと、そして全ての披露宴会場でのサービスを行っていたこともあり、全館の動きを把握できる環境でした。
こんなスタッフホテル全体で僕1人だったと思います。
ただの変わり者です。
それもあり、いつも使用しない案内の方法を提案できたり
イレギュラーにも対応することが出来ました。
この時にもう1つ良かった環境が、やっぱり男が1人だったという事。
男の中で女が1人だとそりゃ可愛がられるし、その逆もそうで
僕も好き勝手な事を言いましたが、若いあんちゃんが言ううんやしと可愛がってもらえた事は環境は凄く良かった。
再び山へ行くときは、もう帰ってきたらダメなじゃないの!?ってくらいの送別会を開いてもらいました。
あの姉さん連中はホント最高だったな~
この後、最後の白馬での冬を迎えました。
一方で、この年(大学を卒業して1年目)からで結婚式のサービス会社のダイナーだけでなく、ホテルの運営側のPlanDoSeeにも片足を突っ込み、平日の朝食とランチの仕事も始めました。
それまでハイクラスのホテルに宿泊もしたことない僕は、お客様はとんでもない期待をしてこのホテルに泊りに来ていると思い込み続け、それがきっかけでストレスを抱え5月病のような軽い鬱を働き出して3ヵ月後の7月に経験したのを覚えています。
そこで分かったのは、鬱だから、嫌な事があったから気晴らしに飲みに行くというのは、飲んだ所でその一時は楽しいのですが、また翌日は辛い。
結局は仕事をしながら成長するか何かを乗り越えるしか方法はない。
仕事のストレスは仕事でしか解決しないなって事を身をもって感じました。
その次に待っていたのは怪我。。。
スノーボードの練習も同時に行っていた関係で親指にヒビが入る怪我をしてしまいました。
エアマット施設で安全何ですが、飛ぶ前に転んだ際に親指をグニっとやってしまいました。
これがちょうどお盆前(笑)
これからめちゃくちゃ忙しいのに親指に包帯をまいたまま支配人の所に謝りに行き、その後は親指に包帯を撒いたまま1ヵ月程度働きました。
若干無理したこともあり、右手親指の関節が今でも曲がっています
その後、白馬で最後の雪山生活を送ります。
このときに上司から連絡あり
「ミヤケン帰ってきたらホテルのドアマンやってよ」
と、この瞬間、スノーボードを辞めても仕事がある事は確定、気が楽になったのを覚えています。
そしてプロスノーボーダーになれなかった僕は4月にホテルに戻りドアマンに。
ただ、ここで面接があるとか。
それまでは朝食・カフェとダイニング部門で働いていましたが、ドアマンは宿泊部門。
宿泊部門の面接でお願いされてるから大丈夫だろと軽い気持ちで受けたらもちろん大丈夫でした。ただ用意を全然していなく、怒られ、その後ネタにされた覚えています。
(メモ用のポストイットだけを所持に臨みました。)
その後、しばらくドアマンを続けていたら新しく上司になるという噂の女性のマネージャーに目を付けられてしましました。
第一印象はあんまり良くなかった事ははっきり覚えています。
でも、後にも先に僕にとって最高の上司になったのは間違いありません。
こっそり他の仕事も探して僕を引き留めたのもこの上司。
休憩中のランチで
上司「ミヤケン、仕事探しとるんか、何したいんや?」
僕「僕、実家が農家でいずれは継ぐと思うのでその前にネット関係の仕事を・・・」
上司「そんなん全部ここでやったらいいやん」
僕「え、いいんですか!お願いします」
この瞬間をきっかけに、婚礼部門の仕事を辞め。宿泊部としてのホテルマン生活がスタートしました。
ちなみに部署名はRDと言ってRooms Diviisionというカッコいい名前の部署。
上司からは宿泊専用のソフトの取り扱いを教えもらい
僕「出来ました」
上司「天才やな~」
上司「ミヤケンこれやっといて」
僕「出来ました」
上司「はや~、天才やな~」
この上司はおそらく「天才」が口癖でした。
褒めて伸びるタイプの僕はめちゃくちゃ気持ちが良かった。
上司「これマニュアルどう思う」
僕「いや~言葉の意味が全然分かりません」
上司「じゃぁミヤケン直してみ」
僕「このカードもっとこうの方が良いと思うんですけど」
上司「あんた天才やな~」
上司「ミヤケン、サンタにならんか」
僕「・・・」
上司「今年のクリスマス頼むで、ミヤケンサンタ」
今、思えば入った色んな仕事を任せてもらえたな~
半期の部署内のMVPにも選んでもらえたり、本当に人に恵まれていたと思います。
もちろん大変な思いも沢山しました。
ミスが起きた時の報告書、これのフォーマットを上司が変更し、そこに例として僕の名前とミスの内容が記載されていました。。。そしたら案の定、その報告書の第1号になったり。その他一通りのミスをしました。
まぁ僕らしいです。
業務としては主にフロントであったり夜勤で翌日の宿泊の準備をすうる仕事でした。
この翌日の準備がかなり性に合っていて、特に宿泊者をイメージしながら部屋割りを決める作業は多分得意でした。
夜勤をしている時は不規則な生活が1年半続きましたね。
基本的には14~8まで働く日が続き、出勤としては月に11日程度。
1日に2日分働く感じですね。
夜勤明けの疲れ切った体に浴びる朝の太陽が気持ちよく、そのまま帰宅する日が多かったのですが、たまに24時間営業している居酒屋で先輩と朝に飲むビールはそれはそれは最高でした。しかもすぐ眠気が来るので飲みすぎないw
夜勤を始めて約1年、2012年の秋に、まとまった休みをもらい実家の稲刈りを手伝いに帰りました。稲刈りは学生の時から何ども手伝いをしていたので、自分にとっては恒例行事。ただ、毎年と違ったのは、神戸に帰る時に大量の新米を持って帰った事。
30㎏の米袋をドンっとおいて好きなだけ持って帰ってもらいました。
後日、新米を食べた同僚や先輩から
「ミヤケンのお米めっちゃ美味しかった」と何人からも言われました。
自分は稲刈りを手伝っただけなのに何か嬉しいな~、ホテルマンをしててお客様に喜んでもらうのも嬉しいけど、お米を一から自分で作って、それを食べてもらい「美味しい」と言われた時の喜びってホテルマンを上回るだろうな~と感じ。
それまでも面談ではいずれは実家に帰って農業をするだろうと伝えていましたが
この事がきっかけで農業をやろうと決心しました。
またこの時、少し精神的に参ってた事も農業への後押しになった気がします。
(これは誰にも言ったことない)
そしてその年の3月にホテルを退社し農家になりました。
株式会社PlanDoSeeは僕の人生に欠かせない時代。
「人生の節目節目でPDSで働いて良かったと思わせてやる」(確か)
という言葉を人伝えに社長が言っていたと聞きました。
PDSを辞めて8年になりますが、節目どころか、事あるごとにPDSで働けて良かったと思っています。
行動指針の「I am one of the customers.」
もし自分がお客様だったら。自分だったら欲しいと思えるものを自分だったら嬉しい価格で提供すること。自分だったらこう接して欲しいと思える態度で接すること。自分だったらこういう場所であり続けて欲しいと思える店に進化しづける事
働く場所は違えど、今でも大事にしている言葉です。
ここまでの僕の人生は
学生時代の吉野家に始まり、スノーボード・婚礼スタッフ⇒PlanDoSee(ホテルマン)⇒農家
25歳で就農。
18歳から25歳までの7年間は僕にとってかけがえのない時間でした。
□2013年農家になる
農家になって1年目、いや神戸にから帰った初日。
父が地元のデパートで小松イ草の展示会の最終日で片付けに行くことに。
ここで畳屋さんと会話し、小松イ草の農家が1軒になったという事を知ります。
前情報も何もなく、美味しいお米を作りたいと農家になった僕はイ草も同時に頑張らないといけないと言われた事を覚えています。
農家になったのは良いが窒素・リン酸・加里という言葉も知らなければ農業に関わることは何も知らない。
まずは、石川県が行っている耕稼塾という農業を基礎から実践まで学べる研修の一番下のレベルで週に1回勉強を行いながら農業をすることになりました。
家の仕事との関係もあり休みがちでしたが何とか卒業させてもらえました。
中華料理屋さんでのアルバイト
実は1年目は農業をしながら地元の中華料理屋さん”尚軒”でアルバイトをしていました。これが家のすぐ近くにあり、田んぼが終わったらそのままバイト、時には田んぼが終わる前にそのままバイトなんて日もありました。
バイトしてたの?って思われるかもしれませんが、7年間神戸にいて、地元との繋がりはほとんどなかったので、尚軒でのバイトはかなり意味がありました。
飲食店経営者との繋がりや地元の方との繋がりも増え、後々の販路拡大にも繋がっています。尚軒は約2年程働かせてももらい、卒業。
農家1年目は農作業にバイトにと変に慌ただしかったな。
おまけに結婚もありましたw
ここはプライベートすぎるのでそっとしておきます。
農家1年目で1つ感じたのは、仕事が終わって家に帰り、ボーーっとする時間が長いなと
始めのうちは楽だな~と感じていましたが、これが徐々に焦りになりました。
米づくりは1年に1回。特に冬の時間をただボーっと過ごしていたら翌年に成長はないのではと。。。
それから農業関連の本を読むようになったりました。
夏頃、田んぼにいるときに声を掛けてくれた普及員の人に農業青年っという団体に誘われて断っていましたが、冬から参加することになり、ここで始めて地元に農家の知り合いが出来ました。
この農業青年との出会いが農家としての人生をガラっと変えました。
□農業青年クラブ
農業青年クラブ(4Hクラブ)は全国にある任意団体で、地区の若手農業者で構成されています。日々の取組の成果を発表する大会もあり、優秀な発表には農林水産大臣賞が授与されます。
人見知りにな僕は、始めは会に参加しても無口で、ひたすらどんな会なのか、どんな人ったちなのかを観察していた覚えがあります。
次第に慣れ、意見を言えるようになると月に1度ある集まりも楽しくなり、気が付けば積極的に活動に取り組んでいました。
県連という各地区の代表者が集まる会にも参加する役割ももらい繋がりも県から地区に広まりました。その年は北陸ブロック大会という北陸4県の農業青年が集まる大会の開催県が石川県で、この準備を担当する事になりました。
これをきっかけに当時の県連メンバーとの交流が深まり、。無事に大会を運営できました。農家になって3年目、ずっと家族での作業でしたが、農業青年を通じて組織で何かを達成する事の楽しさを久しぶりに感じました。
その後は地元、小松能美地区の会長を勤めました。
この団体は全国にあり、且つ将来を担う若手が属している、県では無く末端のクラブが盛り上がらないとダメだ!と北陸ブロック大会の準備中に感じ、僕は「このクラブを全国の模範になるクラブにします」と総会で言った覚えがあります。
グループで農林水産大臣賞を取る事を目標にしていました。
その後は言ったからには何かしないと、、、
と案を出し走り回るも簡単に行くわけが無く、会長1年目の冬までは空回りしていました。
その冬に商工会議所の方との会いで一気に変わりました。
商工会議所が地元の農家と飲食店・スーパーを対象に商談会を開くと聞きつけ、すぐに担当者と連絡を取りました。
農業青年として何か関わりたい事を伝え、そのまま会場の見学にも動向した結果、商談会にも携われる事になりました。
これをきっかけに商工会議所と農業青年の距離が近づき、その後は農商工連携のイベント企画などを行いました。
さらに、この年はH30年、北陸地方をお雪が襲い地域のハウス700棟が倒壊しました。
この新聞を見て、これは何かしないといけないなと感じ、農業青年でクラウドファンディングを立ち上げ、地域の農協に電動ノコギリを寄付する事にしました。
これも、当初はお金の寄付の予定だったのですが、仮に70万円集まっても1棟1000円にしかならない、支援者と支援を受ける側の想いがマッチしないとなり。ハウスが倒壊しままだとどうなるか、何が1番大事なのかを考えた結果、「農地を農地」に戻す。ハウスが倒壊したままだと何も植えられない、農地として戻すためにもハウスの撤去が最優先と考え、電動ノコギリの寄付と決めました。
結果的に開始から20日も経たずに目標金額を達成し、各農協に電動ノコギリ6台を寄付することが出来ました。また、令和元年の台風15号で千葉で甚大な被害がでた際には、5台の電動ノコギリを農協から借り千葉県の農家へ貸出、200棟のハウスを撤去する事にも屋役立ちました。
こうした活動が評価され
平成31年2月に開催された第58回全国青年農業者会議の優秀クラブ表彰で農林水産大臣賞を受賞しました。
大きな事を口にするのは周りを巻き込む為にも大事だが、自らにプレッシャーを欠けていたので肩の荷が1つ降りた瞬間でもありました。
僕が個人だけでなく農業青年や組織で取り組むのには意味があります。
もちろん1人じゃ出来ないからというのもありますが、皆の成功体験にする事で、各々の自信になるんじゃないかと考えています。
たまたま農業青年という場で一緒になっているが、ここを卒業すれば地域の担い手とし期待される年齢です。
町内の役員・小学校のPTA・別団体の役員など若手・農家が減っているので確実に期待されます。
(農家は暇でもないし、時間がめちゃくちゃあるわけでもない事は言っておきたい!!)
その時に、ここでの経験が少しでも活きてくれば、それはその会の活性化に繋がると信じています。
農家が地域の価値を上げる存在になる為にも、農業青年(4Hクラブ)は交流だけでなく参加しているメンバーの成長や成功体験が大事のなのかなと思っています。
現在は全国農業青年クラブ連絡協議会の副会長を務めていることもあり、今後も全国のクラブ員やクラブが活性化する事を考えていきたいです。
□ミヤケンは意外と神経質で心配性
就農当時の面積は14haで現在は20ha。住宅地が多いこともあり、他の地域ほどドッと面積は増えていません。
しかし、ここから先5年くらいでドッと増えるだろうなという予想はあります。
それもあり現在、新しく作業場の建設を行っています。
シェアだの何だの言われる時代に建物を所有することは凄く悩みました。JAの持つカントリーへの出荷を行った方がリスクは少ないのではないかと、空いている倉庫を借りた方が良いのではないかと2・3年迷い、立てる決断をしました。
ただこの2・3年で建設費が高騰し、結果として決断の遅さが建設費の増大に繋がったと思うと、決断の早さの大切さ、そしてその判断材料となる計画や理念の大事さを痛感しています。
就農当時の出荷の割合は85%農協で15%が直売でした。
作付けの品種も2種類でしたが、2021年はゆめみづほ・あきたこまち・ミルキークイーン・コシヒカリ・ひゃくまん穀の種なります。
出荷先も農協40%・米卸40%・直売20%になる予定です。
品種はほぼ固定ですが、2021年は米価が下がることが予想されるので単価の高いミルキークイーンを3年ぶりに作ることにしました。
今まで辞めていた理由はフレコン出荷が出来ないから。
フレコン出荷だと約1000㎏の袋で出荷が出来て作業性も良いんです。
ミルキクイーンは30㎏の袋での出荷になり体力的にもきつく、米が割れやすく刈取り適期の判断が難しいこともあり辞めていました。
現在、面積は20haで約1800俵の内360俵を何とか自分で売りたいなと言うのが目標
しかし、農家になって分かったのは僕は営業が凄く苦手な事。
そして自分を発信することが苦手な事。
こうして文章を書くことにも凄く時間がかかりました。
ホテルマン時代の経験から売る事には慣れているだろうと感じていましたが、
お越しいただいた方へのサービスは慣れていたが、新たにお越しいただく為の行動は全然違う。
自分なんかがこんな事を言っていいのか、物事を大きく言いすぎると、間違った伝わり方をするんじゃないか。
話をする場でもついつい弱気な発言も混ざってしまいがち。
正直すぎて言わなくて良いことまで言ったり、こうやって書きながらもそのクセが出ているなと感じます。
気が弱く、心配性で悪いことを考えるとネガティブになり、、、
農業に向いてないんじゃないかと思う事もしばしばありました。
台風が来るとなれば台風の中、田んぼを見に行ったり、何か失敗すると考え込みでしまうしまう性格なので、正に最大の敵は自分の中にあるって感じです。
ただ発信に関しては就農当時は積極的でしたが、2017年に発信が原因ではないが不運な事故が続き、その辺りからストップしていました。
それが2020年、コロナをきっかけという訳ではなく、色々インプットしすぎてアウトプットする場所がないとマズイなと思い2020年からTwitterを10年ぶりに復活させました。
これが丁度良い発信のリハビリになったな~と感じています。
その後、新しくこのHPをつくりました。
まだまだブログの更新頻度は少ないが、これから蓄積させていきます。
□小松イ草
小松イ草に関しても触れておきます。
小松はイ草の北限の産地で唯一の日本海側の生産地、冬を雪の下で育つイ草は丈夫に育つ。そのイ草で織った表は丈夫なもになると言われていました。
昭和30年代が生産のピークで1400軒の農家が300haの農地でイ草栽培をしていました。
それが「生活様式の変化」「他産業への人の流れ」「機械化の送れ」「中国産イ草」「大雪などの自然災害」など様々な要因が重なり生産者は右肩下がり、H23にはいよいよ宮本農産1軒になりました。
石川に帰ってきた初日に1軒という事を知らされた小松イ草。
「あんたが何とかせないかん」「残さないかん」「生産者を増やさないと」と就農当時はプレッシャーを掛けられました。当時は自分が儲ければ生産者はきっと増えると思っていましたが、「あんまり儲ける儲ける」って言わんほうが良いとと言われたことがあり、それからガラっと考え方が変わりました。
1軒のイ草農家を守ろうとしてくれる、畳屋さん・家具屋さん・お花屋さん・応援してくれる人たちがいて、自分だけが儲けるんじゃなくて、小松イ草に関わる人たち皆が良い想いをする方が、小松イ草を残したいって思う人を増やすことになるんじゃないかなと考えました。特に自分主導で動いたのは小松イ草を花材として使う事。イ草の認知度が引くのでまずはイ草の良さをPRしたいなと考えました。
1軒の花屋さんが協力してくれ僕の無茶ぶりに応えてくれる。
この方の為にも辞められないと思い、東京へ苦手な営業へも行きました。もちろん苦手なのでアポなんて取れず飛び込みで行きました(笑)アポを取らずにいった事は怒られなかったのですが、「こんなの持ってくるな」とイ草を持ってきたことを怒られたこともありました。
でも結果は残りました。外国人デザイナーのいる花屋が良いとアドバイスを実践した結果。2015年「ニコライバーグマン」の伝統花伝というシャングリ・ラホテルでの展示イベント。「ゴトウフローリス」の冬の店頭ディスプレイで使用してもらえる事になりました。単発の取り扱いでしたが物凄く嬉しかったのを今でも覚えています。しかし、地元で認知されていない事に違和感を感じ、その後は県外へ営業へ行くのを辞めました。
そしてお正月に絞ってイ草を花材として使おうという事にし、小松イ草を使った注連縄と正月飾りを作ることにしました。
今のところ正月だけに絞っている理由は1年に1度必ず訪れるから。
(今後は通年の販売を目指したいなと思っています)
畳って1回変えたら5年10年と変えない。我が家の一番古い畳は30年前のものです。
そうなると、今使っている畳がどんな畳で、どこのイグサを使用したか分からない。
家を立てるときに出てくる畳の見積もりは和紙など使用したモノが多く、消費者が小松イ草とリクエストをしないと出てこない状態である。
そんな事もあり、1年に1度必ず来る正月で小松イ草に触れてもらい認知し続けてもらう事を大事にしています。
正月飾りはお花屋さんで、僕は営業担当。。。営業は苦手なはずが他の人の商品になると不思議と売れるもんですね。現在は取り扱ってくれるお店を3店舗見つけることが出来ました。
始めは、まっすぐなイグサを渡すだけでしたが、現在はイグサを網みリースとして使用できる者も販売しています。
2019年からは老人ホームのお爺ちゃん・お祖母ちゃんも仲間になってくれイグサを編む作業を行ってくれています。この老人ホームとの取り組みが面白く、編んでもらった委託費は会社ではなく、お爺ちゃん・お祖母ちゃんに給料として支払われるんです。1人に換算すると小さな金額ですが、担当者が言うには、施設に入って世話をしてもらう側になった高齢者が世の中の役に立つ、これだけでも凄いのに、給料をもらえる。
この給料で孫にお菓子を買ってあげるです。この体験が何事にも代えがたい。
と言って頂けています。
これめっちゃ良い話だと思いませんか。
こんな形の貢献もあるんだなーと実感しました。
2021年からはこの想いも乗せて正月飾りを販売します。
と同時にイグサが畳の素材であり、畳はイグサで出来ていることも伝える必要があると考えています。
畳って畳屋さんが作るから工業製品と思われがちですが、実はイグサは田んぼで育っている自然のもの。なので天然イグサを使用した畳はどれ一つと同じものはない。
時間が立てば緑から飴色に変化する。手入れをすればツヤツヤする。
湿度を吸ったり吐いたり呼吸もするし、呼吸困難になればカビだって生える。
畳は生き物だ!!と発信してきたいと思います。
□今後の想い
HPを作成したこと、新しく納屋を建設することもあり大きな借り入れが必要になりました。そして借り入れをするには事業計画が必要になります。
2018年に石川県の先輩農家、ぶどうの木の本さんに「真面目な人ほど借金をしなさい」と言われました。
そして「来る日も来る日も返済の事を考えるようになる」と
まさに根が真面目な僕は、それが自分事、且つ目の前の事になると今まで考えた事のなかった数字にまで気になったりと、言葉通りになっています。
借金をきっかけに、2020から2021にかけて経営者として始めて計画を考える期間になりました。
併せて自分がどういう農業をしたいのかも考えました。
そこでホテルマンから農家になった事を振り返りました。
ホテルマンは素敵な仕事で僕の人生には欠かせなかった。
ただホテルは特別な日に訪れる方も多く、その一瞬のお手伝いし日常ではない特別な日を体験し思い出にしてもらう。お米は毎日食べるなぁと思った時に、農家は毎日の食卓を支える事が出来るし、そのお米が美味しかったり、生産者の顔が見えたりすることで、その方の人生の価値を上げ豊かに出来るなと感じました。
ミッション
暮らしを守り豊かな心を地域の人々へ
ビジョン
関わる人から期待をされ、超えていくことで、地域の価値・農業の価値を上げ続け安心して暮らせる街を創る。
農家は作物を育てる以外にも暮らしを守っています。
消防団に入ったり、地域の河川の管理をしたり、周りの知らない所でいざというときには真っ先に動くのが農家だったりします。大雪の時にはトラクターやフォークリフトで町内の除雪を行う。スタックした車を救出する人います。
農家がいる事が、その地域の価値が上がる。安心して暮らすことが出来る。
美味しいと言ってもらう以外にも、農業の遣り甲斐を見つけました。
毎日の食卓の価値を上げる、地域の価値を上げる
それが安心となり豊かな心を人々へ届けることができる
農業は最高のサービス業じゃないか考えると
自分にとって天職なのかなとも思えます。
コロナをきっかけに、地元にも満足に食べられない子ども達がいる事を知りました
昨年は子ども食堂を通じてお米の寄付を始めさせてもらいました。
お客さんの中にも賛同者がいれば、もっともっとこの取り組みを頑張りたいなと思っています。
新しい作業場の後ろには200坪程の畑もあり、そこを貸農園にしたいななどやりたいことは沢山あります。
今後はネットの販売も頑張るけどやっぱり地元が好き。
一番は地域の繋がりを大切にし、僕に共感してくれる人たちと
お米や畑を使いながら皆で支えあえる街を作りたいなと思っています。
2021年2月11日 宮本農産 五代目 宮本 健一
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